昭和43年01月25日 朝の御理解



 信心とは神徳を受ける事だと、あの三代金光様の中で、隅田たけひこ先生が言うておられます。信心とは神徳を受ける事だ。是はまあ結論のですね。もうギリギリの言葉だと思います。信心とは神徳を受ける事だ。それで神徳を受ける為には、どの様な信心をさせて頂いたら良いかと云う事が、焦点にならなければならんので御座います。勿論神徳という、その神徳の意味は、もう大変な深い広い事出御座いましょう。
 けれども神徳というのは、どういうものかと言うと教祖は、あの世にも持って行けこの世にも残るものと教えておられます。あの世にも持って行けこの世にも残るもの。この世にも残しておけるもの。こうなって参りますと愈々私共がその神徳を受けとかなければならんなと言う事を感じますですね。色々な所から入信いたします。そして例えば隅田博先生が様々な検討に検討を加えられて。
 そして信心とは神徳を受ける事なりと言わばまあ言うなら悟られた訳なんです。ですから其処ん所が目指しじゃないと、信心が間違った事になるんです。いわゆる御利益信心、迷い信心。いわゆる拝み信心になって来る訳なんです。その神徳とはどう言う物かと言うと、神徳とはあの世にも持って行け、この世にも残しておけるものだと、教祖が仰る。それをもっと具体的に言うと。
 神徳とは久留米の初代は、神様のご信用じゃからなと仰っておられる。そこでその神様のご信用じゃからなというそのご信用をですね、受ける事にお互いが精進しなければならない。そこに私が日頃申します所の、信心とは「神様だけがご承知の世界。神様だけが見ておいで、聞いておいでそう言う世界に、生き抜く事だ。と言う事になるのですね。」私は昨夜、昨夜今朝方です。お夢を頂いておった。
 そのお夢が私ほんとに思いますね、好き過ぎるものを作ってはならないなと思います。神徳を受ける為には。何でも好きだと言う事はありますけれどもね、好き過ぎるものがあるといかんです。おかげ落とします。もうそれこそ好き過ぎると知恵も無くなる思案も無くなるんです。私家内と二人で夢の中にですね、まあ何か町をこう見物して回ってる様な感じなんです。
 所がそこに一軒の美術品ですね、いわゆる骨董品の様な物を売っている店があるんです。家内に私がお願いしてちょっと入って見ようち私が申します、さあそこがその、根が好きなもんですから、ちょいとでん買いやせんでも、見るだけでも見たい訳なんです。そしてその店を一巡してからずっとこう見て、回っておりましたらです、このそこの主人か番頭さんがですね。
 さっきあのお買い上げ頂ました物の、お金を頂戴致しますとこう言うんです。私は何にも買って只見て見せて貰うたばっかりよって言ったけれど、いいえまあそんな事仰いますなと言った様な事を言うんです。そして私の持ち物か家内の持ち物か知らんけれども、そのあなたのお持ち物をお調べ下さいとこう言う。開けてみたらそこに入ってるんですよね小さい何か分からんけれども矢張り骨董品の様な物が入っておるんです。
 それは当店の品物で御座います。幾ら幾らで御座いますとこう言うんです。そこでぞうたんのごともうその私が、私共が入れたっちゃないですよ。これは何かの間違いですよ。もうそこははっきり、私共夫婦には分かっておる訳ですよね。私共が買うた訳でもなからなければ取ったのでもない。是はここの店員の人がそう言う難癖をつける為に、入れておる事だけははっきり分かっておる。
 そこで家内がもうそんな事言いよさるごたるなら、あの警察で白黒をつけましょう。と、えらいその家内が雄弁にその言ってるんですよ。その自分達が取っとるとじゃない、自分が入れとるとじゃないと言う事を。いいやそう言うわけにはまいりません。そんなら警察行きましょうと。ならお前どんだけ行ってくりゃよかたいとこう言いよりましたら、あなたもあなた証人で来て貰わにゃどうしますか、と言うてやかまし言うから、そんなら行こうかなと言う所で目が覚めた。
 こう言う所がですね、ほんとに私共がそのまあ言うなら馬鹿と阿呆で道を開けとか、人が泥棒じゃと言うても取っておらなければ泥棒じゃなし。人が乞食じゃと言うても物を、物乞いをしなかったら乞食じゃないのだ。人が泥棒だと言うても乞食じゃと言うても、腹を立ててはならん、神が顔を洗うてやると仰る。それは成程警察に参りまして、白黒付くかも知れません。
 けれども私はこういう時ですよ、いわゆる神様だけがご承知の世界。まあそこで私は大体失敗した様な気が致します私も家内も。なら警察に行こうかと言うて居る所そげなこつ言うなお母さんあげん言いよんなさるから、その代金ば払うときゃよかじゃないか。ここはいっちょ馬鹿と阿呆になっとかじゃごて。神様だけはご承知なんだからここで白黒付ける事がいろうかいと、と私が夢の中で言うておれば私は合格しとった。
 それは向こうが入れとるとですけんで、はぁあの人はとても、大変な豊かな人じゃある。ちょっとあの人は違うと、恐らく思うでしょう、向こうが入れとる事だけは間違いないのですから。それを、白黒付けましょうと言や、向こうは初めからか汚れ様と思いよるのじゃから、汚れ抜くに違いありません。すとそこに対立が生まれ、喧嘩が生まれ、そして結局、無実の罪に泣かなければならんかも知れません。
 又無実の罪じゃなくても白黒が付いても、相手を罪に落とし入れるより外にありません。でしょうが。私はですね、神徳を受けると言う事はこう云う在り方になる事だと思うですね。神徳を受けるとは、そう言う事なんだ。昨日上滝さん所の謝恩祭で御座いました。あの私あちらへ行ったたんびに思うんですけれどもね、もうほんとに家族上げておかげ頂いて行きよると同時に、もうほんとにおかげを受けて行きよる事です。
 今度も家が美しゅうなっとりました。立派な小屋というのには勿体ない様な、立派な倉庫が出来ております。二階が私共の行った時のこの控えに使われる様にきちっとなっとりました。ご神前も全部やり変えましてから、もう八足から、もうもちろんお社も今度のご本部参拝で求めて来とりましたから、大きなお社に変えられました。お祭りも何時もよりも、賑やかに出来ました。
 ほんとに年々歳々、こうして繁盛のおかげを頂いておると言う事が有難い。だからよりより大きなおかげを頂く為に、私が年末から頂いておる、神様は愈々大きなおかげを下さろうと言うのであるから、私どもがいよいよ豊かにならにゃいかんばい、と私が申しました。あそこの庭の隅にですねクチナシの、クチナシが実をいっぱい付けておる庭木があるんです。それを私あそこへ入りかけにですね。
 もうこうせやんわからん様な所を神様は、指を差す様にねあれ、あれを見とけあれを見とけとこう言うて下さるんです。久留米の石橋先生も仰っておられましたですね。あの神徳を受けると言う様な事に付いてですね、どう言う様な心掛けが必要でしょうかち。自然の観察が大事だと言うておられますですね。いわゆる私観察しとる訳じゃないけども、神様が観察させて下さる。
 ははぁ今日は、クチナシの御理解ばいなと私思いよった。クチナシと言う事は無口と言う物を言わんと言う事。それけんち言うて、無言の行という意味じゃないですけれどね。それで皆さんもご承知の様にこの人はですね、言う事も立派な事を言うが、自分は立派な事やって、やってのける人ですよ。あの上滝さんという人は、もうそれは本当にそうです。それけんあったどんがごと毎日参りなさる人の、気持が知れんと言う様な事を、平気で言う人なんです。
 私だん、親先生の教えをこう頂いとけばそれを、行じ貫く事だ、と言う風に、様な事を言うんです。だから家庭の上にもそれが現れております、矢張り。けれどもそれで良いと言う事じゃないのです。言うなら息子にでも嫁ごにでも、言うて聞かせて分からせると言う様な生き方なんです。所がそれがほんとに分かって行きよるかと言うと、分かって行きよらんと私くしが、昨日言う訳ですね。
 それで、お説教がましいごと、そりゃ成程立派な事じゃあるばってん、言わんで済む信心。求められる時には言いなさい。けれども今年は上滝さん、あんたはこの流儀でいかないかんよ、息子達夫婦は是でなきゃいかんよと言うてまあ、色々話させて頂いた事で御座いますけれどもですね、その中に私は例話として、昨日渡辺先生が、お礼に出て見えた事の話をさせて貰ました。
 皆さんもご承知でしょうが、今度欧米旅行をされましたんですね。その時にもう是だけは、もう一番のお土産としてです、自分の欧米旅行した記念にと言うて、あちらでその、お人形を買うて来られた。いわゆる陶器の人形でしょう、割れる物ですから。それを、マントルピースの様にこうやって飾ってあった。今あちらに来とります女中さんが、昨日の朝お掃除をさせて頂きながらです。
 どうしたはずみだったでしょうかその、人形がバーンと滑っていって、向こうの方に置いてある壷に当たったんです。だから割れたんですよ。まあびっくりしたに違いありません。先生が大事にしておられる。言うなら是はもう家、重大の宝になるのかもしれません。うちの先代が欧米旅行の時に、それもそれこそ税関を抜けるのにも、もう大変な事だったそうです。
 もうそして割れない様にと言うてもう大変な努力をして、言わば持った帰ったそのお土産がです、割れたんですからね、それでその先生どうもすいません、人形の首が折れましたと言うて、そのお詫びにいったんです。そこで先生がね、あんな人ですから私はね、この人形が割れたと言う事は責めない。この人形が割れたと言う事によって、あなたが、何か気付かせて貰う。
 あんたがお掃除をしておる時の、心の状態がどうであったか。こう言う様な、実意丁寧のない事ではいけないと言う様な事、何かそこにあんたが分かって改まらせて頂、反省させて頂きゃあ、あなたのこの事は私は何も言わんよてこう。皆さんどう思われますか。はぁやっぱり、渡辺先生だなと思われるだろう。けれどもこの人形を見てみると首が折れておるだけじゃないじゃないのち。肩からこう割れておるじゃないの。
 なぜ初めから、こういう風に割れとりますと言わんのとこう言う訳なんです。そこがあなたが、駄目な所よと。あなたが是では助からんよて。こんな事では。言うなら、粉々に割れましたなら割れましたと、なぜ言わんの。それに首だけ折れたなんて。そう言う心があなたは助からんよと、まあ言うた。私は惜しいから言うんじゃないよと。その時に首うな垂れてから黙って聞いておったけれども、その後が悪かった。
 とにかく先生が好きなさらん様な事ばっかりするから、その女中さんがする訳ですね。もうその時間すぐその後から。仕方のない事ばっかり言うちからという意味じゃないでしょうか。そしてここに渡辺先生が言われるのに、本とに助かりがたき者ばかりは、ほんとに仕方がありませんねとこう言う訳です。私はほけんごとして聞いとりました。そう言う事ではね、その女中さんが助かっとるのじゃないじゃないですか。
 あなた自身が助かってないのじゃないですかと、言いたいのですけれども、是は私のお取次ぎの流儀ですからそん時は申しませんです。神様の場合でもそうですよ。どんなに皆さんがとくとくと例えばですね、お届けをなさってもこうであってもです、はぁ成程その人の信心なりで聞きも致しますから、黙って聞きますけれども、間違うておる時には、何かに機会に私は言うのが私の流儀なんです。
 だから是は、はぁ渡辺先生あんたが助からのは、あの事ばいて今度は何時か、言うてあげたいと思っております。それで助かってないでしょうが。立派な事を言う。私は惜しくはないて。あんたが改まってすりゃくれりゃって言うのが、改まる所か返って反発しとるじゃないですかねぇ。それを私が美知恵さんに言う訳です、上滝さんに。あんたも同じ様な所があろうがてねぇ。
 嫁がほんとに自分の思う様に、息子が自分の思う様に、成程形の上から言や、信心のない者から見りゃ、成程ほんとに、女子手一つでようやっていきなさる、本当に立派にやって行きなさると言うけれどもです、それでは本当のおかげになって行かないよと私くしは。渡辺先生いかにもそりゃ立派な事を、女中さんに言うてあげられた様だけれども、女中さんも助かっていなければですんなら。
 自分のその女中さんが嫌な事ばっかりする時の気持と言う物を考えてみなさいもうこの人ばかりは、本当に助かり難いなんの自分自身が助かっていない。其処の所をですね私はですね、ほんとに信心とは神様が見通し聞き通し。 いわゆる神様がご承知の世界にです、全ての事をご承知の世界に生き抜く事なんだと。信心とは御神徳を頂く事なんだと。隅田先生が結論しておられますようにです。
 なら御神徳とはどういうものかと、御神徳とはあの世にも持って行けこの世にも残しておける様な物だと。久留米の初代はです神徳とはな神様のご信用じゃからと言う事なんです。神様のご信用を頂かせて頂く為にはですねぇ、私が夢の中に家内と二人で現れておる所に、泥棒を負わせられたそんなら白黒を付けようと言うて、白黒を付ける為に警察に行くのじゃあない。ここはいっちょ馬鹿になっとこうじゃないかと。
 向こうがしとるとじゃけん向こうは、心の中にちゃんと分かっとるとじゃから、ああそうですかそりゃどうもすいませんでしたと言うて、その代金を置いて、行けれる私共になる事なんだと。そこにはです、その美術品屋も助かるだろう、私どもの心はいよいよ助かって行く訳なです。そして神様が顔は拭うてやろうと仰るおかげになってくる。泥棒だと言われても乞食だと言われても、物乞いしなけりゃ乞食じゃない。
 人のものを取らなければ泥棒じゃない。神様だけはご承知なのだからという、生き方なんです。夕べ私共10時半頃帰りました。そしたらつるつるその豊美が、走って参りましてから、もうほんとにご無礼しましてからち、何があっただろうかと思うた。所がですね、今日はあの、末永さんが、あの、おかげを頂いてから、御祈念をさせて頂きよります。ところが御祈念も、終わった。霊神様のご挨拶も終わった。
 終わった安心したんですね、そのまま頭を付けたまま眠って20分経っても30分経っても起きて来んのです。さあそこで皆さん一生懸命後ろ祈念をしたんですね。もう光昭なんかはこの勇さんがいよなさいましたが、なぜ泣きよんなさるじゃろうかと思いよったらですね、お父さんの留守にこう言う事があってっちてその泣きよったんです。それでその椛目遠方から参って来とる人達はもうここにお届けして帰っておりますよね。
 お届けされません、バスの時間がなくなってしまう。椛目に方から参って来とった人達が、はぁよかもう折角ああして休んでなさる、あれだけの修行が出来よんなさるとじゃから、もうじっとして、眠らせてあげなさいと言うてその、椛目の方達はあそこで皆、その、起きなさるのを待っておりました。そこにですね、あの漏電の、漏電がどこにかあってですね、あのベルが始めてなったんです。ジャンジャン言うわけ。
 私は聞いた事がないですけれども、それからまた慌てだしましてから、電気屋に電話を掛け、て右おう左おうしよっても、まだ起きらない。私が帰って来た時にもうそれこそ、一心に御祈念をしておる様な風にして寝ておる訳。してそれを聞いとったから、まあ私しかしその姿を見てからほんとに胸が一杯になりました。ほんとに信心はね、厳しい事だなと思いました。
 今ねあの人は4時過ぎには起きよるんですよ。晩なもう私が、お初穂整理するのを手伝ってからしか休まんです。そして昼は横になりませんとこう言う。善導寺の原さんが言うておられました。お広前にお参りさせて頂いたら、えらいごつごつ言うてから、何か音がするそうですもん。それけん、なんじゃろかと思いよったら、末永さんが御結界に座ってから、この机にですね。
 眠ってから頭をごつごつ持って行ったっちゃ覚えん位に、眠っておられたっち言うんです。もう先生私はそれをほんとに拝んで帰ったと言うて、原さんが言われる様にそうなんです。信心ちゃあ厳しいなあと思うです。しかしそれを本人はねもう、ほんとに楽しゅうて応えんでしとりますその修行を。昨日私がお初穂整理するとにここに座らせて頂きましたら、ここ出て参りましてからですこの辺の所が私は思いますですね。
 先生今日は御祈念中に、ご無礼いたしました。ほんのうとうととしました、とこう言うてお届けするんですよ。「なん言よるとこのあんた、何十分寝とったと思うとるの」。しかし是いやどうですか、渡辺先生と同じ事でしょう。本当によう眠ったのち、言いたい様な気持ちで御座いました。誰でもです、私くしや何十分寝れた、そりゃ又眠っとる間はほんのちょっとのごたるですもんね。
 ほんとにすいません何十分休ませて貰まして、と言うよりも、矢張りうとうとと眠ってと、言うほうが言いよかです。その、女中さんでもそうです。もう先生ちりじりに割れました、と言うよりもです、首がもげました、とほうが言いよかったわけなんです。そこの辺にですね、私は愈々豊かにならなければ、おかげは受けられないと言う事が、感じられますでしょう。
 神徳を受ける為にはほんとに矢張り、一生懸命の修行もしなければなりません。やっぱり人が真似の出来ん、人が言うなら「人偏なら私は行人偏と言う様な、」信心も修行もさせて貰わなければならんと同時にです、何時でもどの様な時でもです。神様だけはご承知の世界に生き抜かせて頂いておるんだ、と言う信心をさせて貰わなきゃいかんです。それが例えば乞食だと言われても、泥棒だと呼ばれてもです。
 そこでなら白黒付け様と言った様な事では、ご信用が受けられない事が分かります。隅田先生はその信心のお話しの結論においてです、信心とは神徳を受ける事であると仰っておられます。まさしくそうですですからお互いがそこん所の信心、神徳を受けさせて頂く為には、どの様な信心をさせて頂いたら良いかと、そこに焦点を置かれたときから、私はほんとの信心が出来るのじゃなかろうかと、所謂修行もいとわない。
 いや楽しゅうなって来る愈々豊かにならせて頂くおかげを頂かせて貰うて、所謂言わんで済むおかげ。是は神徳を受けると言う事をですね目指す信心。所謂信心とは神徳を受けることなのだから、その神徳を受ける為にはという一つ信心を、願いとし焦点として信心を進めて参りましたらです。それが私は楽しゅう出来るのじゃなかろうかとこう思う。言わんですむ事も、例えば人の真似の出来ない修行も、愈々信心が有難い楽しいものになって来るので御座います。
   どうぞ。